las barcas 音楽とアートの旅を。

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【書評】沖縄タイムス読書欄las barcas別冊掲載記事

2015.01.18

1月17日付沖縄タイムスの読書欄に、話題の本として、las barcas別冊の書評を掲載して頂きました。
執筆頂いたのは、las barcas1に小説で参加して頂いた崎浜慎さんです。

沖縄タイムス読書欄las barcas別冊書評

実は、掲載されたのは短縮版で、記事より少し長い文章を最初に執筆頂いていました。
崎浜さんに許可頂き、長文バージョンも掲載させて頂きます。合わせて一読ください。

 

◇◇◇

 

 こちらは地に足をつけて真っすぐに立っているのだから、風景は安定して確固とした輪郭を保って見えるはずであるが、どうにもそのようには思えない。少し角度をずらされただけで当たり前だと思っていたものが異様に見え、自分の体が揺らいでいく気がする―。
 私たちが見ていると思っている風景は本当に「風景」なのだろうか、ということをアート総合雑誌las barcas(小舟たち)は問いかけてくる。
 そういう思いにとらわれながらページを繰ってゆくと(すべすべとした紙質を指先で触れることの心地よさ)、あちこちに「見ること」の「不安定さ」が見受けられるのではないか。根間智子のどこまでも揺らいでついには輪郭を失っていく風景写真から始まり、仲宗根香織の喪失した色と光の残像が印象的な写真、阪田清子の点と点をつないだ切り絵状のオブジェなど一見静かな作品たちは、その内に不穏なものを抱えている。
無人の風景が続く写真の中で、山城知佳子の流れていく「水」の写真には人が写っている。しかしその人たちもまた穏やかならぬ風景の一部ではないのか。
 いま、この風景に向き合い不安定に揺れている「私」は、自分が所属し生きていかざるをえない「沖縄」の風景についてどうしても考えずにはいられない。そのとき、鷹野隆大が切りとる沖縄北部の開発にさらされた傷だらけの風景は、私たちはこういう無残な場所に生きているのだということを示してくれる。
 しかし、写真家にとって風景は東京や外国であっても、つまりどこでも構わないはずだ。「沖縄」を特殊な場所だと想定してしまう枠から逃れること。生きるということは、不安定であること、傷を負うことをいや応なしに引き受けることであり、生きていく場所とは私たちが立っているこの場のことでしかないが、そこが「沖縄」と呼ばれているだけなのだ。どこでもない場所で自己の身体が感知するものだけを頼りに、小舟たちは寄り集い、また離れていく。
 この美しい雑誌を評するための言葉はたぶん不要であろう。ただぺらぺらとめくっていき写真たちとの邂逅を楽しみ、何度でも好きな写真の前に立ち戻り時間を共有すればよいはずである。それでもあえて言葉を用いるとするなら、冒頭に置かれた親川哲の小説「櫛」にある「なまえがなくても、じぶんたち、生きてきてるしよ」をそのまま引用するのがふさわしいのではないだろうか。
(崎浜慎・作家)

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